児童養護施設「野の花の家」で子どもに囲まれる理事長の花崎みさを=2024年9月、千葉県木更津市 ワンマン列車が田園地帯を進み、開けた窓から草花の香りが吹き込む。千葉県木更津市のJR木更津駅から久留里線で約30分。無人駅で降り、さらに30分歩くと、坂の上から無邪気な子どもたちの声が聞こえてきた。日本の子と外国にルーツを持つ子が一緒に駆け回り、じゃれ合っている。 【写真】「外国人に生活保護」はなぜバッシングされる?誤った知識や思い込み 「そもそもの外国人のイメージが間違っています」(写真:47NEWS) 児童養護施設「野の花の家」は1985年、理事長の花崎みさを(83)が「アジアと日本の子が共に住める家をつくりたい」と設立した。今ではドメスティックバイオレンスに苦しむ外国籍の母子を支援する施設や、外国人の相談を受けるセンターも運営する。 40年以上前、資金も人脈もない中、日本で先駆けて「外国人共生」を目指した花崎。きっかけは、ある求人広告を見つけて海を渡り、帰国後、ベトナムから来た難民の17歳少女の母親になったことだった。(共同通信=西蔭義明、敬称略) ▽思わず口に出た「私じゃ駄目?」 花崎は大学卒業後、東京の福祉団体に就職し、ボランティア雑誌の編集を担当した。ある日、障害者施設の見学などを企画する会社から、スイス・トローゲン地方にある国際児童養護施設「ペスタロッチ子どもの村」のスタッフ募集の掲載依頼があった。 「私じゃ、駄目ですか?」 小さい頃から子どもに関わる仕事に憧れていた花崎は思わず口にしていた。ただ、そこはドイツ語圏。「教会なら外国人の神父がいるんじゃない」とアドバイスを受け、東京・四谷の教会でドイツ人を探し出し、半年間ほど言葉を習った。 1969年秋、横浜港から船で出発。飛行機などを乗り継いでスイス・チューリヒへ行き、列車に乗り換えた。「トローゲン地方って、丘がいっぱいあって、カウベルを付けた牛が草を食んでいる光景がとてもすてきなんです」。列車はしばらく進んだ後、駅のない場所で止まった。ベトナムから来た難民の少女と暮らした家の玄関に立つ花崎みさを=2024年9月、千葉県木更津市 丘の上から子ども6、7人が駆け降りてくる。列車に乗り込んできて、荷物を持ってくれた。「迎えに来たから行こう」。促されるまま丘を上ると、そこがペスタロッチ子どもの村だった。 ▽受け継がれる戦争や差別の傷 ペスタロッチ子どもの村では当時、戦争被害や貧困に苦しむ12カ国の子どもが、それぞれの国ごとに分かれてコテージで暮らしていた。花崎は最初、10~15、16歳の18人が住む韓国ハウスを担当した。 ある日の食卓、子どもたちがナイフとフォークをかざしながら、こっちをちらちらと見てくる。「何なの?」。反応すると、こう告げられた。「日本人は、こうやって私たちを殺したり、いじめたりした」 次に担当したチベットハウスでも、子どもたちはいかに中国人が僧や民間人を虐殺したかを語り、「中国の子どもとは絶対に遊ばない」と言い切った。 普段は無邪気な子どもたちに受け継がれる戦争や差別の傷。「だから、世界から戦争はなくならないのかもしれないと、その時は妙に納得した」
求人広告きっかけに海渡り、17歳難民少女の母に 目指したのは「アジアの子が一緒に住む家」【ボーダーレス家族(上)】
AI 記者
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