<未収集の日本兵の遺骨は世界各地に112万人分。国の責務として収集が進むが、そこには大きな課題が。『アステイオン』103号より「戦没者遺骨収集の現場」を転載>【菊池誠一(昭和女子大学名誉教授)】highD-shutterstock■パラオと日米戦争 中国唐代を代表する詩人の杜甫(とほ)に、戦争の苦しみをうたった「兵車行」という詩がある。そのなかに、つぎの句がある。 【動画】全国の薬学部に伝わる《たにし踊り》とはどんな踊りなのか?...盆踊りに取り入れる地域も 生男埋没随百草 ...古来白骨無人収 新鬼煩冤旧鬼哭... (男子を産めば戦死して雑草に埋もれてしまう。...昔から白骨を収容するひともなく、新しく死んだ者の魂はもだえうらみ、古くに死んだ者の魂は嘆き叫び...) 古今東西、多くの兵士たちが戦場に倒れた。しかし、当事国がその遺骨を故郷に送還することはまれであった。 今年は戦後80年にあたる。日本がアジア各地に支配を拡大し、1941年に太平洋戦争がはじまると、中部太平洋のミクロネシア地域まで戦線を拡大した。戦争末期、日本軍に反攻する連合軍はフィリピンを奪還するために、ミンダナオ島の真東に位置するパラオ諸島に攻撃をさだめた。 パラオは元ドイツ領である。第一次大戦後に日本の委任統治となり、トラック諸島やサイパン島など、この地域を「南洋群島」、あるいは「内南洋」などとよんでいた。日本はパラオに南洋庁をおき、東洋一と称された飛行場をパラオのペリリュー島に建設した。 日本から3000キロメートルほど南に位置するパラオは、現在、人口2万人ほどの小さな国である。その人口の25パーセントほどが日系人といい、親日的な国である。青い空と白い雲、そしてサンゴ礁にかこまれた海はダイビングの世界的なメッカでもある。 このパラオ諸島に米軍が押し寄せてきたのは1944年9月。その防衛を、「満州」に配備されていた第一四師団麾下(きか)の水戸歩兵第二連隊、高崎歩兵第一五連隊、宇都宮歩兵第五九連隊、第一四師団戦車隊、海軍の西カロリン航空隊などが担うことになった。 ペリリュー島には第二連隊を中心に総計1万人ほどが守備していた。ペリリュー島のさらに南のアンガウル島は、第五九連隊の第一大隊を主力とする1200名たらずが守備していた。 この両島で日米軍が死闘を展開し、日本軍の守備隊はほぼ全滅した。ペリリュー島ではわずか34名の日本兵が洞窟に身を潜め、敗戦2年後になってようやく米軍に投降・帰順したのだった。 ■戦没者遺骨収集の歴史と収集の流れ 厚生労働省(以下、厚労省)によれば、海外などで戦没した日本兵士・軍属等は約240万人という。旧厚生省は1952年から遺骨収集をはじめた。 また、海外渡航がしやすくなると遺族や戦友による遺骨収集もおこなわれ、これまでに収容した遺骨は約128万人、未収容の遺骨は約112万人という。 そのうち、海底に没して収集困難な遺骨や相手国側の事情により収集ができないこともあり、現在のところ、約59万人の遺骨を中心に国の責務としての遺骨収集事業が実施されている。 パラオのある中部太平洋地域は、未収容の遺骨が多い戦域である。国は遺族や関係者の要望をうけ、2016年度に、遺骨収集を集中的に実施する5年間の「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」を超党派の賛成で制定した。 コロナ禍により、この法律は2029年度まで延長されることになった。この法律の制定に伴い、2016年に厚労省の外郭団体として、一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会(以下、推進協会)が設立された。 では、わたくしが参加しているパラオ(ペリリュー島の集団埋葬地)における戦没者遺骨収集の流れをみていこう。 遺骨収集は慰霊事業でもあり、推進協会の職員と推進協会を構成する社員団体(日本遺族会、水戸二連隊ペリリュー島慰霊会など)、人類学専門員、そして考古学専門員でチーム(10人ほど)をつくる。 日本人の考古学研究者が海外の遺骨収集に派遣されるのは、パラオが初の事例である。それはパラオの法律により、日本兵の遺骨収集といえども、発掘という行為を伴う以上、図面や写真撮影とその後の報告が義務付けられ、また現地の文化遺産を破壊から守るためでもある。 パラオに着いた派遣団は在パラオ日本国大使館や現地政府と打ち合わせをおこなう。そして、高速ボートで青い美しい海を1時間ほどわたるとペリリュー島につき、州政府と打ち合わせた後に、いよいよ遺骨収集となる。 1086人の日本兵が埋葬されたという墓地は、鬱蒼としたジャングル内にあった。埋葬地の樹木の抜根や伐採は現地のワーカーさん(10人ほど)が大きな戦力だ。 そして、表土を剝ぎ、硬い石灰岩破砕礫を含む層をツルハシなどで掘り進める。するとポッカリと穴が空く。穴から遺骨がみえる。空隙は肉体が無くなった部分だ。 丁寧に掘り進め、遺骨の全身をあきらかにしていく。社員団体の方は、熱心にその作業をすすめる。ときたま、その作業過程で手榴弾や不発弾があらわれ、パラオにおいて不発弾処理をするノルウェーのNGOが対応する。 全身骨が明らかになると考古学チームは写真撮影、図面作成の迅速化のために三次元計測などを実施し、そして人類学者の指示のもと社員団体の方が遺骨をとりあげ、洗骨をする。現場ではこのような流れとなる。 その後、遺骨は鑑定室(宿舎の一室)で、人類学専門員が各部位を並べ、柱(人)数を確認し、DNA鑑定のため日本に持ち帰る検体を選ぶ。パラオでは、現在年1回、12月に検体送還をするため、このときは厚労省の担当官も参加する。 日本に持ち帰った検体は、DNA鑑定で所属集団(日本人か否か)と遺族との血縁関係の有無を確認する。検体以外の部位は、ペリリュー州政府の建物に保管安置する。 検体の身元が特定された場合は、残りの部位(現地で焼骨)を含め遺族にお返しし、特定できなかった場合は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」に納骨される。DNA鑑定の結果がでるまでは、現状では1年半から2年ほどの時間がかかるという。
戦後80年、パラオに今も眠る「1086人の日本兵」...遺骨収集チームがぶつかる「壁」と4年後に迫る「タイムリミット」とは?
AI 記者
0 コメント

コメント (0)
コメントはまだありません。ご意見をお待ちしております。